2010年2月21日日曜日

ふるさと「大道」について

 【大道の由来】
かつて金沢は三分村と呼ばれていて荘園が広がっていました。この三分村は、社家分(瀬戸神社)、平分(六浦藩)、寺分(称名寺)から成り、社家分は瀬戸神社の所領で瀬戸から瀬が崎にかけての地域、平分 は川、三艘から室の木にかけての通称でした。

今の大道は寺分と呼ばれていて足利持氏の祈願所であった大道山常福寺(現在は廃寺)の所領でした。仁治二年に朝比奈の切り通 しが出来たときに大道の道が整備され、二間幅の道で当時としてはかなり広い道でした。この大きい道が通っていたことから大道と名付けられたようです。

江戸時代の金沢八景の絵図などを見ますと大道村の近くに大きな橋が描いて あります。これは現在の大道橋と思われます。この橋は以前は大橋道と呼ばれていたようで、大きい橋のかかる道ということで大道となったとも言われて います。葉山にも大道という地名が残っています。

【大道の関所】
大 道には、関所が設けられていて、幕府に塩を運ぶ塩の道として六浦から鎌倉へ行くための要所でした。関所は、現在のエールハウスのあたりにあって、昭和の初期まで関所跡(定め書)が残っていたようです。人はニ分、馬は三文の通行税を取っていたようです。通行税は、称名寺造営の費用に充てられました。

【大道の重要性】
金沢文庫の初代館長であった関靖氏の「かねさわ物語」によりますとこの辺りの地域は、交通上の要津、製塩地、戦略上の要地、士民慰安の地でした。現在の六浦駅の付近は埋立地で、昔は良港でした。自動車がなかった時代は、陸路より海路が重要な交通手段でした。房総との行き来だけでなく、宋や唐などの外国との交易も盛んに行わ れていました。宋船にネズミの駆除のために乗せられた猫を弔う「猫塚」が今でも朝比奈の千光寺に残っています。

今の上行寺の前まで砂浜で、地名に残っているように多くの塩場がありました。鎌倉の海岸は潮の流れが速くて塩が作りにくかったので、当時の大道は鎌倉幕 府にとって、塩の生産地としても大変重要な場所でした。

侍従川の豊富な水に恵まれ大変良い米が採れました。田に引く水争いを仲裁するための、自分の鼻を欠いてしまったという鼻かけ地蔵の逸話が残っています。また、侍従川が運ぶ砂鉄を利用して刀の生産も行われていました。高舟台の地名に残る高宗は、このあたりに住んでいた高宗某という刀鍛冶の名前に由来していると言われています。昔はこの辺りから「なかくそ」と呼ばれる刀作りで、砂鉄から玉鋼を作った時の廃棄物である鉄の塊が出たそうです。

このように、当時の大道は中国との交易品、塩、米、刀といった 生活必需品を鎌倉幕府に供給するための重要な地点であり、景勝地の金沢八景にも近く、まさに大いなる道として栄えていました。

【大道の歴史】
一一四七年(文久三年) 常福寺(称名寺末寺)の阿弥陀堂が作られた。
一一八五年(文治二年) 源頼朝が瀬戸明神をたてた。
一二四一年(仁治二年) 朝比奈の切り通しが切り開かれた。この頃鼻欠地蔵が作られた。
一二六九年(文永六年) 唐船三艘が三艘港に着いた。(三艘の地名の由来)
一四二二年(応永二九年) 称名寺造営費用捻出のため常福寺門前に関所が設けられた。商人は二文、馬車、荷車は三文徴収された。(一文は今の二十三円)
一七〇三年(享保二十年) 高栄山高照寺宝樹院が三艘から大道に移った。
一七九五年(寛政七年) 高宗の谷戸入り口に、お庚申様が作られた。
一八七一年(明治四年) 六浦藩が六浦県になった。(廃藩置県)
一八七三年(明治六年) 三分学舎(六浦小学校の前身)ができた。
一八八九年(明治二十二年) 三分村と釜利谷村が合わさって六浦荘村が出来た。
一八九七年(明治三十年) 峠村が六浦荘村に入った。
一九〇〇年(明治三十三年) 六浦ー逗子間にトンネルが作られた。
一九〇九年(明治四十二年) 山王様が瀬戸神社に合祀された。
一九一〇年(明治四十三年) 金沢、六浦の塩田が廃止された。
一九一一年(明治四十四年) 六浦ー釜利谷間にトンネルが作られた。
一九二〇年(大正九年) 初めての国勢調査が行われた。(六浦荘村 4219人、金沢村 5232人)
一九二三年(大正十二年) 関東大震災で多くの被害を出した。
一九三〇年(昭和五年) 湘南電気鉄道(後の京浜急行)の黄金町ー浦賀間、金沢八景ー逗子間が開通した。
一九四一年(昭和一六年) 西大道住宅が建った。
一九四一年(昭和一六年) 県営住宅が建った。
一九四四年(昭和一九年) 相武トンネルが開通した。
一九四四年(昭和一九年) 六浦原宿線が開通した。
一九四四年(昭和一九年) 大道小学校が開校した。
一九五六年(昭和三十一年) 六浦駅が出来た。
一九五六年(昭和三十一年) 朝比奈ー鎌倉間の道路が出来た。
一九六三年(昭和三八年) 大道中学校が開校した。
一九六六年(昭和四一年) 日通団地が造成された。
一九七二年(昭和四七年) 三信団地が造成された。
一九七八年(昭和五三年) 高舟小学校が開校した。
一九八三年(昭和五八年) 六浦三丁目住宅が造成された。
一九八三年(昭和五八年) 大道集会所、屋台小屋、ポンプ小屋が新築された。
一九八三年(昭和五八年) 山王様石段が修理された。
一九九二年(平成四年) 宝樹院阿弥陀三尊像が神奈川県の重要文化財に指定された。

【大道の自然】
大道を縦断するように流れる侍従川が大道の自然に彩りを与えています。高度成長期は、ドブ川と化してしまいましたが、今では清流にもどり、カルガモ、カワセミ、イソヒヨドリが飛び交い、ウナギや鮎も棲むようになり、6月になるとホタルを観ることができます。

(大道の四季)
1)春
雪が溶けて田の面に張った氷も消えて田んぼに水たまりが出来るころになるとオタマジャクシが泳ぎはじめる。明堂(みょうど)の吉野桜が満開になって当たり一面花吹雪になる。竹藪ではウグイスがなき田んぼの土手にはツクシが顔をだしタンポポの花でうまる。春日面(かすがめん)のネコヤナギも白金色の芽を吹きはじめる。

2)夏
五月そろそろ水もぬるまって農作業が始まる。稲の苗も大きくなって子供たちは苗間に入りズイ虫(害虫)を取る。六月中旬の夜になると夏祭りの太鼓の練習をする音が聞こえてくる。この頃からそろそろ田植えが始まる。

七月十四日は瀬戸神社の夏祭りである。瀬戸、六浦、川、三艘の順に屋台が並んで各村中を繰り歩く。大道へは丁度昼頃に到着する。夜になると小川や田んぼの畦道でホタルが飛び交いホタルを呼ぶ子供の声が聞こえてくる。「ホ-ホ-ホ-タル来い。あっちの水はニ-ガイゾ、こっちの水はア-マイゾ、ホ-ホ-ホ-タル来い。」

八月の暑い昼下がり大池の栓が抜かれる。池の中にはコイ、フナ、ドジョウ、エビなどが沢山いて子どもたちも大人も夢中で魚取りに興じる。帰り道、大堰(おおぜき)で泳ぐ。夕方から鼻欠地蔵の前の広場に集まって田圃に水引をする。
かくらの谷戸の蓮田では蓮の実がうれて、子どもたちは蓮の実取りに夢中になる。八月十五日はお盆の中日で夕方から松明に火をつけて虫送りの行事が行われる。

3)秋
田圃一面が黄金色に染まる頃になるとそろそろ稲刈りが始まる。伊賀山の周辺の土手では彼岸花が満開となって丁度赤の絨毯を敷き詰めたようになる。山ではモズの鳴き声がする。この頃になると栗拾いが始まる。堂山から登ってお富士山を廻り、かや場あたりまで行く。小粒だが味はよい。

十月一日は山王様のお祭りである。昔はノボリを立てて参道に灯篭を建て鳥居の前に寿司屋(牛寿司)が出て参拝する人をもてなしたと村の長老から伺った。
十一月二十三日は収穫祭である。大道の田圃でとれた米は大変良質でいつも一等米であったと聞いている。

4)冬
毎年、雪は三十センチぐらい積もる。雪が降るとパッチンを作ってホオジロ、アオジなどをとって遊ぶ。お正月には新しい服や靴を買ってもらい凧上げ、羽根つき、双六などに興じる。

一月十四日の朝はドンド焼きの日である。前の日に集めた門松や書き初めを積み上げ燃やして餅を焼き、これを食べて無病息災を祈った。一月十五日頃になると、かや刈りが始める。この行事は村中の人が総出で行い大鳥居の谷戸から行く人や堂山から登って行く人もいる。この刈った茅は田圃の隅に積んでおいて三月頃、屋根の葺き替えに使われる。この作業は村中の人が出て行う。朝のうちはみんなの顔が良く分かるが午後になると顔は煤で真っ黒になり誰が誰だか分からなくなる。

夕方、屋根屋さんが刈り終わった屋根は実にきれいで女の人が髪結いに行った時のようで美しいものである。この行事が終わる頃になると山の木の芽もふくらんで四季は終わる。(廣瀬一雄)

【参考文献】
かねさわ今昔物語
http://hirose.my.coocan.jp/text/daido/kanesawa_20160207.pdf

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